彫金だけしてたいな...

「かっこいい、美しい」を感じるようなものだけ見てたいときもある。

特に病んでるわけではないが、頭が疲れてはいる。

真実をみんなに通じうる言葉というもので理解、表現することは最高だし大切にしたいと考える一方で、
美醜に関する感覚もめちゃくちゃ大事に思ってる。

美醜(おしゃれ、かっこいい、美しいと言い表されること)は多次元解析であって、言語化可能なんだろうけど、
美術家やデザイナーでない限り、日常的には「センス」で片付けられることが多い。

片付けて良いんだけど、片付けるからこそ、その感覚値に解離がある人と接触すると、理解し合うことが大変に思えて、投げやりになる。
閉戸する癖がある。

人と出会ったときに、言葉で表せる知識量のすり合わせより、
この感覚値が近しそうだと思える人だと心が開きやすいのかもしれない。
長期的な関係を築く場合はこの感覚値をいかに言語化できるかが大切だったりする一方翻って、
例えば短期的な色恋においては、
言語化なんて野暮なことをすっ飛ばして
「近い」と思うことが乙だったりする。

こう言うことと結婚を切り離して考えられないのがロマンス勢なのだろうな。
いや、私もそう言う側面はあります、わかります。わかりますよ。
情熱最高。

何が言いたいんだったっけ・・・・・・


おしゃれ、かっこいい、美しい、の感覚を育てるのは、
美醜の判断軸が何によって構成されてるかの分析量と、そのためのインプット量だ。

天性のものだと考えるのは人の努力量を見誤るので気を付けたいよな。

センスなんてねーんだよ。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

いただいたサポートは、本を買うことに使わせていただきます^^